2013/03/11

二年前の今日の話

その日僕は銀座にいて仕事をしていた。
百貨店の店内で揺れを感じ、スーツケースが転がってきた。観光来ていた外国人はパニックになって出口を探していた。


揺れが収まるとすぐ近くにApple Storeがあったので、wifiを拾いradikoでラジオに聞き入った。同時にtwitterで情報を集めながら次の行動を模索した。そういえば母が高速に乗っていたかもしれない。伯母の二ヶ月に一度の都内通院日だった。
時間的には自宅に着く頃だったが不安になり、電話…つながらない。それならメールを…と思ったが送れない。ソフトバンクは回線がパンクしていたのか、全く反応してくれなかった。一応ダメ元でgmailとyahooからも送っておいた。
(後から聞いたら届いていたようだった)




この時ほどtwitterが有意義でありがたいと思ったことはなかった。皆、混乱しながらも互いを心配し合っている。情報を集めながらもとりあえず駅に行ってみようと、有楽町駅に向かうと程なくして駅のモニターには火の海になった気仙沼の様子が映し出されていた。しばらくすると今度は大きな津波が押し寄せ、街をまるまる飲み込んでどこまでも進んでいく…。文字通りの地獄絵図、これだけ凄惨な映像を目にしたのは初めてだった。本当に言葉がなかった。


しばらくしてJRの職員が「終日運行を休止します」とのアナウンス。ここで皆頭に浮かんだのはこのまま一晩を過ごすかもしれないと思ったのだろう。コンビニには既に行列が出来、入場制限していた。並んで手に入れることが出来たのは、わずかな食料(確かカロリーメイト的なもの)と飲み物1本だけだった。
(銀座界隈ではスニーカーと自転車が売り切れるほどだったらしい)


そこから日が暮れ始めたので、とりあえず会社まで歩くことにした。電話は一向につながらない。まあいい。とりあえず歩いたらいつか着く。ので歩こうと思った。
日比谷から神谷町辺りを抜け、六本木に着くと歩き疲れたので休憩をした。この時、iPhoneアプリのViberで先輩と連絡が取れ、とりあえず会社に皆いて無事だ、と。帰ってイイと言われたが、会社を目指した。道路は依然大渋滞で全く動く様子も無い。バスに乗らなくて正解だった。しかし、六本木に着くまでの間に高齢者がバス停で座り込む様子を多数見かけた。なんつーかこんな時にこそ助け合う、、、なんてキレイ事かもしれないけど、でもどちらの気持ちもわかる感じで複雑だった。


会社になんとか着き、(今となっては理解出来ないけどw)しばらく仕事をし、しばらくすると帰宅することに。副都心線は動いていたようだけど、家までは徒歩帰宅。246は徒歩で自宅を目指す人達で行列をなしていた。


途中で友人の事務所に寄り、水とか買えたものを届けた。友人に会うだけでなんだかホッとしたのを覚えている。帰宅してからはTVをつけっぱなしにし、度々来るゆれくるの音に辟易しながら横になっていたけど、全く休まらなかった。こんな日が数日続いた。


翌日?か翌々日、twitter経由で近所の空き地で岩手県(確か大槌町?)に持っていく救援物資を募っている人たちがいて、せめて何か出来ることをしようと靴下や余っていた毛布、Tシャツにタオルなど託した。写真を付けて呟いたのだけど、凄い勢いでRTされ続けた。善意の連鎖だろうか。ここでもtwitterが役に立ったのだった。


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…と二年前の今日のことを思い出すだけ書いてみたけど、
去年はなんだか書く気になれなかった。

(快晴の空と、小学校の反旗)

あの日から様々なことが変わってしまったけど、一日を大切に生きようと切に感じたので、ここに記しておきます。

2013.3.11

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